ケロログ
March 29, 2005, 5:15 pm
6見立寺・布袋尊
第六番・見立寺・布袋尊のご案内です。  

関連タグ:【追加】【削除】
通報する
この記事へのコメント
苺一枝
March 29, 2005, 5:39 pm 
テキストコメント
壽昌山了心院見立寺は、開基が大道寺正繁で永禄元年1558年です。
開山は、感誉存貞上人です。本尊は、阿弥陀如来です。もと現在の蓮馨寺の地に立てられましたが、蓮馨寺建立に伴い現在地に移されました。
徳本行者は、江戸中期の浄土宗の僧で、木食上人、念仏僧とも言われます。
名号は、阿弥陀仏の四字、南無阿弥陀仏の六字などを言います。
音声コメント
このコメントには音声はありません。
 
苺一枝
March 29, 2005, 8:02 pm 
テキストコメント
見立寺の住所は、川越市元町2−9−12です。
電話番号は、049−222−3321です。
布袋尊は、唐の禅僧で、名は契此と言いました。
小柄で太鼓腹で、大きな袋を背負って放浪し、福徳を施したと言い、世人は弥勒菩薩の化身とも言って、尊びました。
音声コメント
このコメントには音声はありません。
 
苺一枝
April 12, 2005, 3:16 pm 
テキストコメント
6見立寺・布袋尊
永禄1年(1558)後北条氏の川越城将政繁は、城下に一寺を建立して建立寺と名付け、一族中の存貞和尚を小田原伝肇寺より招請して開山とし、後に見立寺と改めた。存貞和尚は、永禄6年増上寺10世と成ったが、永禄9年見立寺に再住した。そして先に政繁の母が平方村に造営した蓮馨寺を、川越に移して両寺を兼帯した。      
 天正18年(1590)豊臣秀吉の禁制書には、「武州川越蓮馨寺同門前見立寺」と記されている。蓮馨寺門前より当地に移転した年代、経緯等不詳であるが、恐らく延宝年中(1670年代頃)であると考えられる。   
 見立寺は文政11年(1828)3月25日、石原火事により類焼、更に天保11年(1840)4月8日に焼失している。再度の火災により、古文書等も現存していない。現本堂は、明治14年(1881)に建立されたものである。その他、当寺には、板碑(青石塔婆)二基、徳本上人名号碑、松平(松井)周防守家の阿弥陀如来坐像並藩主位牌等が現存している。 

音声コメント
このコメントには音声はありません。
 
苺一枝
April 12, 2005, 3:28 pm 
テキストコメント
6見立寺・布袋尊
●小江戸川越七福神の布袋尊
見立寺には、小江戸川越七福神の布袋尊が祀られています。
名を契此、号を長汀子と称し、自ら弥勒菩薩の化身であると言った布袋尊は、容貌福々しく、小柄で太鼓腹が特徴。大きな袋を負い、何でもこの袋に収めたので、布袋和尚と呼ばれました。後に死を迎える時、袋を負い、喜悦の面相を浮かべていた事から福神とされ、七福神に加えられたと言います。布袋尊の円満の相は、忙しい世に住む人々に安らぎをもたらします。
見立寺は、川越の観光名所・菓子屋横丁のすぐ裏手にあります。
どうぞお気軽にお参り下さい。
音声コメント
このコメントには音声はありません。
 
苺一枝
April 12, 2005, 3:31 pm 
テキストコメント
●赤穂浪士・矢頭右衛門七の妹の墓
当寺には、赤穂浪士の一員・矢頭右衛門七(やとう・えもしち/討ち入り当時17歳)の妹の墓があります。妹は矢頭兄弟の次女で、元禄15年(1702)12月の討ち入りを前に、母親らと共に叔母の嫁ぎ先の奥州白川藩(福島県白河市)に向かい、討ち入り後に幕府に窮状を認められ、親類の多賀谷家の次男と結婚しました。その後、白川藩主の国替えに伴い、上州厩橋(群馬県前橋市)へ、更に川越へと移住、その時には70代に成っていたと推定され、川越へ来た翌年に病没しています。嵐の様な激動の時代に、男社会の中で思いがけない運命を辿った女性の姿が正に浮かび上がって来る様です。
音声コメント
このコメントには音声はありません。
 
この記事にコメントを書き込む

この記事へのトラックバックURL

http://www.voiceblog.jp/tb.php/93a35613531316a36363836313