石井柏亭「ミレーの落穗拾ひ」
石井柏亭『世界の名畫』(偕成社)昭和18年発行 所収
10分57秒
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石井柏亭
ミレーの落穗拾ひ
ミレーの畫はずゐぶん寫眞や版畫になつて日本へはいつてゐますから、皆樣も御存じのことゝ思ひます。
ミレーといふ人は、ほんたうの百姓の子で、フランスのノルマンヂーの小さな村に生れ、二十歳になるまで、そこで百姓の仕事をしてゐました。小さい時から畫がうまかつたので、父親はミレーをシェルブールにやつて、ある名もない畫家につかせました。この無名の先生はフランドルやオランダ派の人達、レンブラント、プラウエル、ブリューゲルなどが好きだつたので、ミレーも自然それにかぶれたところがあるかも知れません。
父親が亡くなつたのでミレーは郷里へ歸つて家のことを見なければなりませんでしたが、どうしてもその心は農業のほかに向かひます。それで母親やお祖父さんがこれを察してかれをも一度シェルブールへ修業に出しました。さうかうするうちに田舍の方ではふしあはせが續けざまにやつて來て、ミレーの家は貧窮に陷りました。どうかしなければならないのでミレーは十八世紀にはやつた畫の寫しを描いてはこれを僅かの金に換へて家計を助けました。
コレラの流行と革命のあとのごたごたを避けて、一千八百四十九年のほんの一時のつもりでミレーはパリからあまり遠くないバルビゾンといふ村に住ふことにしましたが、こゝにその二度めの妻君といつしよに一生を送ることゝなりました。
ミレーはこのじぶん展覽會へ出す畫にはキリスト教關係の畫題を選んで描き、また賣らうとする小さなものには十八世紀風にギリシヤ神話の中の裸體などを描いたものでしたが、バルビゾンへ移る前の年の展覽會へ「箕ふるひ」といふ百姓の畫を出してからは、そんな使ひ分けのやうなことをやめて、自分の一番よく知つてゐる百姓の勞働、苦しみ、それからつゝましい喜びの生活を專ら寫すことになりました。これはどうしてもかうしなければ眞面目な美術家の生活とはいへないからでした。
ミレーの數多い作の中からいゝものを選び出すといふことは、なかなかむづかしいのです。どうしてかといふに、美術家の良心でいつぱいになつてゐるミレーの畫には、駄作がほとんどないからです。「箕ふるひ」、「種蒔く男」、「接木をする百姓」、「馬鈴薯のとりいれ」、「羊飼ひ」、「豚殺し」、「編みものしながら羊を守りする女」、「子の搖り籠をみとる母親」、「家内の仕事にいそしむ主婦」すべてこれ等の人物とそのまはりのありさまとは見るものに忘れることの出來ない深い感じを與へます。
ここに載せた「落穗拾ひ」の出た時かなりの評判を得ましたが、まだ襃める人と貶す人とまちまちで、ミレーの生活も樂ではなかつたのでした。しかし、これはうちごしらへの黒ぱんみたやうなもので、正直一本氣なところがいゝといつて、この畫を襃めた人もありました。
日本ではさういふことがあるかどうか知りませんが、西洋にはとりいれをした跡の野に落ちてゐる麥の穗を、貧乏人に拾ふことを許す習ひが昔からあるやうです。舊約聖書のルツ記の中にも落穗拾ひの話が出てゐます。で、この畫の前の方に落穗を拾つてゐる三人の女はみんな貧乏人なのでせう。遠くの方では刈入れた麥を頻りに車へ積んでゐるのが見えます。それから大きな藁塚が出來てゐます。藁塚はこの畫で見ましても、西洋の方が日本のよりも大きくこしらへるやうです。
夫婦らしい百姓が二人立つて夕方のお祷りをしてゐる「あんじえりゅす」といふ畫もずゐぶん寫眞などで知れ渡つてゐます。野に働く人達が遠いお寺で鳴らす鐘の音を聽いた時に起す一種の和いだ思ひを、ミレーはこの畫で傳へようとしたものでせう。
この畫はずゐぶん、いろいろな人の手を轉々しました。最初パリのベルギー公使が持つゐたのでした。そののち競賣に出た時、フランスで、ぜひ本國に置きたいと運動したのですが、アメリカへ持つて行かれ、それからショーシャールといふ人がこれを八十萬フランで買取つてルーヴル美術館へ寄贈しました。今もその美術館にショーシャールの寄贈したほかの畫といつしよにかかつてゐます。
こゝでついへにいひますが、どうも美術品を公共的に、大勢の人々に見せ、大勢の人々とともに樂しまうといふ考へは、これまでは日本よりも西洋の方によほど多かつたやうに思はれます。どうしても自分の國の寶にして置きたいと思ふやうな立派なものが賣立てに出ますと、美術館の尻押しをする團體があつて、それが金を集めて品物を買取り美術館へ收めるといふやうなことをします。また一個人が集めた美術品をその人の生きてゐるうち、またはその人の死んだあとで遺言によつて國へ寄附をするといふやうなこともします。寄附しないまでも美術館へ預けて置く人もあります。それにくらべますと、今まで日本で美術品を集めてゐた人はたいていそれをお藏へしまひ込んで置いて、年に一度蟲干しの時に出すか、たまにお客でも來た時に出して觀せるくらゐなもので、あまり大勢の人達に觀せるといふことをしません。これはあまり襃めた習慣ではありません。改めねばならぬことだと思ひます。しかし日本人も震災で燒いたりした苦い經驗をなめましたから、美術品を一人占めにしてしまひ込んで置くのは惡いことだと悟つたらうと思ひます。
お話がちよつとそれましたが、ミレーの油繪では「落穗拾ひ」よりも「あんじえりゅす」よりも、私は今アメリカのボストンにある「種蒔き」の方が優れてゐるかと思ひます。これは一人の農夫が大またに歩きながら畑に種を蒔いてゐる圖です。
それから「鍬による農夫」といふ畫がありますが、これは何でも後盾になつてくれる人があつて、二年の間生活費の心配なしに思ふ存分描くことが出來るやうになつた時の作でした。朝から自分の鍬の音ばかり聞き通して、今ちよつと一息つくために立ち上つた疲れはてた農夫を描いたのですが、これは社會主義臭いやうに取られて、だいぶ議論の種となりました。これに對してミレーは「額に汗することによつてそのパンを得る人を一目見て心に感じたところを、世人は受け容れることが出來ないのか」と歎きました。
ミレーの前にはほんたうの百姓らしい百姓を描いたのは、十七世紀のフランス人でルチンといふ兄弟だけでした。オランダ人やフランドル人も百姓を描くには描きましたが、みな少しおどけたノンキなふうに描きました。百姓の耕作の骨折りや苦しみ、そんなものを眞面目に描き出したのは、ミレーが最初といつてもいゝかも知れません。
ミレーと風景畫のルーソーとは仲のよい友達で、二人ともフォンテーヌブローの森に近い所に住んでゐました。ルーソーが森の奧へはいつて頻りに枝の曲りくねつた木を寫してゐる時、ミレーは野に出て百姓の生活を見るのでした。
ミレーは直接の寫生で畫を作ることをせずに、墨畫の下圖をもととして畫室の中で畫を描きましたが、光綫の感じなどそれにしてはよく寫されてゐます。
