March 21, 2010, 10:15 am
2010年 3月21日
《礼拝説教》 2010年 3月21日
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March 21, 2010, 10:15 am
March 14, 2010, 10:15 am
2010年 3月14日
《礼拝説教》 2010年 3月14日
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March 14, 2010, 10:15 am
March 7, 2010, 10:15 am
2010年 3月7日
《礼拝説教》 2010年 3月7日 伊東献仁
「数えよ主の恵み」
テキスト・コリント人への手紙第2 5章16〜21節
主題聖句・「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(コリント人への手紙第2 5章17節)
「罪の赦し」は、私たちが今の自分の生活を振り返り、そこに現れて来る恵みを数えることだと言えます。自分の過去を振り返る時に、いやでも自分の過去の中に姿を現してくるのは「自分は罪赦された罪人である」という事実です。自分の人生の歩みを包むように、支えるように、罪の赦しの恵みがあったことを数えることができる、それを信じるのが、この使徒信条の告白です。
キリストを知るということは、自分の新しさをわきまえるということです。自分がもう新しくなっているのだということをわきまえることです。自分の知識や経験に先立って、神が既に私たちを赦していてくださるという事なのです。それを信じることです。
私たちが、後しなければならないのは、この神の和解のわざを、人々に告げ知らせることです。「和解」とは、「交換する」「入れ替わる」という意味です。キリストは私たちの罪を、私たちの代わりに負ってくださいました。私たちの惨めさを、ご自分の惨めさとして、私たちよりももっと真剣に、もっと深く悲しみながら、身に引き受けてくださいました。罪過の責任はイエス様が引き受けてくださいました。私たちと役目を交替してくださって神からの裁きを身代わりとなって受けて下さいました。そして、私たちに新しい役目を与えてくださったのです。それが和解の福音です。
罪の現実の中に生きるキリスト者の私たちですが、神を信じ、罪が赦されていることを信じ告白すること、その恵みを数えることが、生きるエネルギーの源泉です。
「数えよ主の恵み」
テキスト・コリント人への手紙第2 5章16〜21節
主題聖句・「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(コリント人への手紙第2 5章17節)
「罪の赦し」は、私たちが今の自分の生活を振り返り、そこに現れて来る恵みを数えることだと言えます。自分の過去を振り返る時に、いやでも自分の過去の中に姿を現してくるのは「自分は罪赦された罪人である」という事実です。自分の人生の歩みを包むように、支えるように、罪の赦しの恵みがあったことを数えることができる、それを信じるのが、この使徒信条の告白です。
キリストを知るということは、自分の新しさをわきまえるということです。自分がもう新しくなっているのだということをわきまえることです。自分の知識や経験に先立って、神が既に私たちを赦していてくださるという事なのです。それを信じることです。
私たちが、後しなければならないのは、この神の和解のわざを、人々に告げ知らせることです。「和解」とは、「交換する」「入れ替わる」という意味です。キリストは私たちの罪を、私たちの代わりに負ってくださいました。私たちの惨めさを、ご自分の惨めさとして、私たちよりももっと真剣に、もっと深く悲しみながら、身に引き受けてくださいました。罪過の責任はイエス様が引き受けてくださいました。私たちと役目を交替してくださって神からの裁きを身代わりとなって受けて下さいました。そして、私たちに新しい役目を与えてくださったのです。それが和解の福音です。
罪の現実の中に生きるキリスト者の私たちですが、神を信じ、罪が赦されていることを信じ告白すること、その恵みを数えることが、生きるエネルギーの源泉です。
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March 7, 2010, 10:15 am
February 28, 2010, 10:15 am
2010年 2月28日
《礼拝説教》 2010年 2月28日 日本ホーリネス教団 井土ヶ谷キリスト教会 工藤良一牧師
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February 28, 2010, 10:15 am
February 21, 2010, 10:15 am
2010年 2月21日
《礼拝説教》 2010年 2月21日
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February 21, 2010, 10:15 am
February 14, 2010, 10:15 am
2010年 2月14日
《礼拝説教》 2010年 2月14日 伊東宏明
「王の誕生」
テキスト・マタイの福音書 1章1〜11節
主題聖句・「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちはその方の星を見たので、拝みにまいりました。」(マタイの福音書 2章2節)
著者のマタイ(主の賜物)は取税人で、同胞ユダヤ人から恨まれる立場だったが、主イエスに召され弟子となった。彼は、ユダヤ人の王キリストの物語を述べる前に、主こそダビデ王の末裔であることを系図で宣言した。
▼1.ヨセフの子としてのイエス
系図の目的は明確で、イエスこそ、真実のダビデ王の後継者であることを示している。ヨセフは実際の父ではないが、マリヤの夫であることで法律的にイエスの父である。
「イエスはおよそ三十歳で、人々からヨセフの子と思われていた」(ルカの福音書 3 章23節)
ユダヤ人は系図を重んじていた。旧約聖書の創世記5章にアダムの系図、10章にノアの系図、11章にセムの系図があるように、ダビデの子孫、イエス・キリストも歴史の流れの中に実在したことが証明されている。
系図が、イエスにとっての過去が重要な事であると言うよりも、読者である私たちの将来の運命を決定づける人類の救い主を、長い歴史の中に、神によって備えられて来たことを証言している。聖書が語る系図はイエス・キリストで終わりになる。それ以後が出てこないのはイエスこそ、歴史の頂点、究極の救い主であることを示している。
▼2.マリヤの家系
ヨセフの妻マリヤの家系もヨセフと同じダビデ家に通じる家柄で、ルカの福音書3章に系図がある。ヨセフはダビデの子ソロモンの子孫で、マリヤはダビデの子ナタンの血筋である。「御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ」(ローマ人への手紙 1章3節)とあるように、真のユダヤ人の王として誕生されたのである。
「王の誕生」
テキスト・マタイの福音書 1章1〜11節
主題聖句・「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちはその方の星を見たので、拝みにまいりました。」(マタイの福音書 2章2節)
著者のマタイ(主の賜物)は取税人で、同胞ユダヤ人から恨まれる立場だったが、主イエスに召され弟子となった。彼は、ユダヤ人の王キリストの物語を述べる前に、主こそダビデ王の末裔であることを系図で宣言した。
▼1.ヨセフの子としてのイエス
系図の目的は明確で、イエスこそ、真実のダビデ王の後継者であることを示している。ヨセフは実際の父ではないが、マリヤの夫であることで法律的にイエスの父である。
「イエスはおよそ三十歳で、人々からヨセフの子と思われていた」(ルカの福音書 3 章23節)
ユダヤ人は系図を重んじていた。旧約聖書の創世記5章にアダムの系図、10章にノアの系図、11章にセムの系図があるように、ダビデの子孫、イエス・キリストも歴史の流れの中に実在したことが証明されている。
系図が、イエスにとっての過去が重要な事であると言うよりも、読者である私たちの将来の運命を決定づける人類の救い主を、長い歴史の中に、神によって備えられて来たことを証言している。聖書が語る系図はイエス・キリストで終わりになる。それ以後が出てこないのはイエスこそ、歴史の頂点、究極の救い主であることを示している。
▼2.マリヤの家系
ヨセフの妻マリヤの家系もヨセフと同じダビデ家に通じる家柄で、ルカの福音書3章に系図がある。ヨセフはダビデの子ソロモンの子孫で、マリヤはダビデの子ナタンの血筋である。「御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ」(ローマ人への手紙 1章3節)とあるように、真のユダヤ人の王として誕生されたのである。
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February 14, 2010, 10:15 am
February 7, 2010, 10:15 am
2010年 2月7日
《礼拝説教》 2010年 2月7日 伊東献仁
「喜びの祝宴への招待」
テキスト・コリント人への手紙 第一 11章23〜29節
主題聖句・「また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。『みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。」(マタイの福音書 26章27、28節)
聖餐は過越の食事の中で定められました。過越がイスラエルの民をエジプトの奴隷生活から救い出された神の御業を覚え、感謝と賛美をささげる機会であったように、私たちがキリストによる救いを喜び祝い、感謝するのが聖餐です。過越は羊の血によってエジプトを打つ神のさばきから免れたことを記念しますが、聖餐は神の御子の血によって罪に対する神の裁きから免れたことを記念します。イスラエルの民がエジプトの苦役から解放されたことを喜んだように、私たちは罪の縄目から解放されたことを喜びます。そして新しい契約の成就として、キリストの死によって私たちの罪が赦され、私たちに新しい心が与えられたことを覚えるのです。
又、イスラエル人が過越の食事を共にすることを通して、自らが神の民の一員であることを確認したように、聖餐を通してキリスト者はキリストを信じる信仰において自分たちが一体であることを確認します。ひとつのパンを裂いて食し、ひとつの杯から飲むという行為は、そのことを端的に表現しています。聖餐に与る者たちは、同じいのちをいただいていることの喜びを体験するのです。
更に、イエス様が「主がくる時まで、この聖餐を守り続けなさい」と言われた約束を信じ、イエス様の再臨を待ち続けるのが、この聖餐式の意義です。神の国の完成の時、救いの完成の日に、喜びの祝宴に与るという約束を待ち望みつつ、聖餐に与るのです。聖餐はその喜びの祝宴を先取りするものです。
「喜びの祝宴への招待」
テキスト・コリント人への手紙 第一 11章23〜29節
主題聖句・「また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。『みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。」(マタイの福音書 26章27、28節)
聖餐は過越の食事の中で定められました。過越がイスラエルの民をエジプトの奴隷生活から救い出された神の御業を覚え、感謝と賛美をささげる機会であったように、私たちがキリストによる救いを喜び祝い、感謝するのが聖餐です。過越は羊の血によってエジプトを打つ神のさばきから免れたことを記念しますが、聖餐は神の御子の血によって罪に対する神の裁きから免れたことを記念します。イスラエルの民がエジプトの苦役から解放されたことを喜んだように、私たちは罪の縄目から解放されたことを喜びます。そして新しい契約の成就として、キリストの死によって私たちの罪が赦され、私たちに新しい心が与えられたことを覚えるのです。
又、イスラエル人が過越の食事を共にすることを通して、自らが神の民の一員であることを確認したように、聖餐を通してキリスト者はキリストを信じる信仰において自分たちが一体であることを確認します。ひとつのパンを裂いて食し、ひとつの杯から飲むという行為は、そのことを端的に表現しています。聖餐に与る者たちは、同じいのちをいただいていることの喜びを体験するのです。
更に、イエス様が「主がくる時まで、この聖餐を守り続けなさい」と言われた約束を信じ、イエス様の再臨を待ち続けるのが、この聖餐式の意義です。神の国の完成の時、救いの完成の日に、喜びの祝宴に与るという約束を待ち望みつつ、聖餐に与るのです。聖餐はその喜びの祝宴を先取りするものです。
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February 7, 2010, 10:15 am
January 31, 2010, 10:15 am
2010年 1月31日
《礼拝説教》 2010年 1月31日 伊東献仁
「あなたはわたしの愛する子」
テキスト・ローマ人への手紙 6章3〜5節
主題聖句・「そして天から声がした。『あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。』」(マルコの福音書 1章11節)
教会の働きの中で大切なことは、正しく礼典(洗礼式と聖餐式)が執行されるということです。教会における洗礼について、旧約聖書の中にその実体を見ることはできませんが、パウロによると、出エジプトの出来事こそ、まさに新約聖書における洗礼の予表となったと言うのです。神様は海をまっ二つに分けて、その中を通過させることによって、イスラエルの民に洗礼を施されたのです。
ヨハネによる洗礼は、罪の悔い改めをした人に対して、その罪が赦されたということのしるしとして授けられたものでした。それは、やがておいでになる救い主イエス・キリストを信じるための道備えでもありました。そのヨハネからの洗礼を主イエス様が受けられたとき、イエス様のアイデンティーが明らかになりました。そこから救い主としての働きが展開されて行きました。
イエス様は、罪を悔い改めてキリストの救いを信じさえすれば、それで良いとは言われませんでした。罪を悔い改めて救われ、生まれ変わりを経験した人は、その信仰を世に向かって告白する必要があります。洗礼とは、キリストのものになりました、キリストにあずかりましたということを、行為をもって告白することです。
救われた者は、洗礼という信仰告白をもって神の民の一員とされ、過去においては罪に死に、現在においてはキリストの命に生き、将来においては栄光の体に変えられる希望をもってクリスチャン生活を全うさせていただけるのです。
「あなたはわたしの愛する子」
テキスト・ローマ人への手紙 6章3〜5節
主題聖句・「そして天から声がした。『あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。』」(マルコの福音書 1章11節)
教会の働きの中で大切なことは、正しく礼典(洗礼式と聖餐式)が執行されるということです。教会における洗礼について、旧約聖書の中にその実体を見ることはできませんが、パウロによると、出エジプトの出来事こそ、まさに新約聖書における洗礼の予表となったと言うのです。神様は海をまっ二つに分けて、その中を通過させることによって、イスラエルの民に洗礼を施されたのです。
ヨハネによる洗礼は、罪の悔い改めをした人に対して、その罪が赦されたということのしるしとして授けられたものでした。それは、やがておいでになる救い主イエス・キリストを信じるための道備えでもありました。そのヨハネからの洗礼を主イエス様が受けられたとき、イエス様のアイデンティーが明らかになりました。そこから救い主としての働きが展開されて行きました。
イエス様は、罪を悔い改めてキリストの救いを信じさえすれば、それで良いとは言われませんでした。罪を悔い改めて救われ、生まれ変わりを経験した人は、その信仰を世に向かって告白する必要があります。洗礼とは、キリストのものになりました、キリストにあずかりましたということを、行為をもって告白することです。
救われた者は、洗礼という信仰告白をもって神の民の一員とされ、過去においては罪に死に、現在においてはキリストの命に生き、将来においては栄光の体に変えられる希望をもってクリスチャン生活を全うさせていただけるのです。
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January 31, 2010, 10:15 am
January 24, 2010, 6:00 pm
2010年 1月24日 午後
《礼拝説教》 2010年 1月24日 午後
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January 24, 2010, 6:00 pm
January 24, 2010, 10:15 am
2010年 1月24日
《礼拝説教》 2010年 1月24日 伊東宏明
「わたしに従いなさい」
テキスト・ヨハネの福音書 21章18〜25節
主題聖句・「これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現すかを示して、言われたことであった。こうお話しになってから、ペテロに言われた。『わたしに従いなさい。』」(ヨハネの福音書 21章19節)
本書は20章迄に、主イエスが私達の信ずべき唯一の救い主、神の御子キリストであると伝え、続いて、信仰に導かれた者の信仰生活の原則を21章に述べています。
▼1.神の栄光を現す
神は「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った」(イザヤ書 43章7節)と言われます。主に蹟われた者は、「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい」(コリント人への手紙 第一 6章20節)と命ぜられています。
▼2.ペテロの死に方
ペテロの最期は、主イエスのように、十字架刑による殉教死であると予告されたと思われます。「年をとると、両手をのばし、他の人に帯を締められ、行きたくない所へ連れて行かれる」(18節)と予言されました。ペテロは自ら逆さ礫けの刑罰を願ったと伝説に語られています。主を信じた者として処刑されることを光栄に思えたからです。
▼3.あなたは、わたしに従いなさい
「信じる」の語は「従う」意味があります。21章には、「信じる」の語がありません。「愛しますか」と「羊の世話をしなさい」に進みます。「信じ、愛し、従う」ことが、神の栄光を現す三つの原則です。主を信じるとは、主の生き方に倣い、主の戒めの「互いに愛し合う」を実践することなのです。全ての人々を主の羊・子羊として愛させることが、ヨハネの福音書の目的です。
「わたしに従いなさい」
テキスト・ヨハネの福音書 21章18〜25節
主題聖句・「これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現すかを示して、言われたことであった。こうお話しになってから、ペテロに言われた。『わたしに従いなさい。』」(ヨハネの福音書 21章19節)
本書は20章迄に、主イエスが私達の信ずべき唯一の救い主、神の御子キリストであると伝え、続いて、信仰に導かれた者の信仰生活の原則を21章に述べています。
▼1.神の栄光を現す
神は「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った」(イザヤ書 43章7節)と言われます。主に蹟われた者は、「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい」(コリント人への手紙 第一 6章20節)と命ぜられています。
▼2.ペテロの死に方
ペテロの最期は、主イエスのように、十字架刑による殉教死であると予告されたと思われます。「年をとると、両手をのばし、他の人に帯を締められ、行きたくない所へ連れて行かれる」(18節)と予言されました。ペテロは自ら逆さ礫けの刑罰を願ったと伝説に語られています。主を信じた者として処刑されることを光栄に思えたからです。
▼3.あなたは、わたしに従いなさい
「信じる」の語は「従う」意味があります。21章には、「信じる」の語がありません。「愛しますか」と「羊の世話をしなさい」に進みます。「信じ、愛し、従う」ことが、神の栄光を現す三つの原則です。主を信じるとは、主の生き方に倣い、主の戒めの「互いに愛し合う」を実践することなのです。全ての人々を主の羊・子羊として愛させることが、ヨハネの福音書の目的です。
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January 24, 2010, 10:15 am


